どーも、ShinShaです。
久しぶりに松蔭神社を訪問しました。
7月初旬、夏越の祓の茅の輪、七夕飾りもありました。
少し雨が降る中、吉田松陰さんに挨拶してきました。
初夏の松陰神社の風景は美しかったです。
ここに来ると、松陰の奇跡を思い起こし、自分をリセットすることができるのです。
吉田松陰という奇跡
『世に棲む日々』
司馬遼太郎著『世に棲む日々』から、吉田松陰という人物について考えてみます。
ここで、長州(現在の山口県)の歴史の少し振り返ります。
戦国時代に勢力を誇った毛利氏は、徳川期に入ると、広島から追い出されて長州に閉じ込められた。
幕府は、毛利氏を徹底的に追い詰め、かつては120万石だった藩の規模は、37万石まで減らされた。
(一石は大人一人が一年に食べる米の量とされています)
その後、毛利氏の長州藩は約260年間で、従順で大人しい藩に変わって行った。
司馬遼太郎は『世に棲む日々』の冒頭に、「長州人について書いてみたいと思う」と綴っています。
その毛利氏長州藩が、幕末にいたってふたたび歴史に登場し、最大の革命勢力となり、ついに幕府をたおし、封建制度をつきくずし、新しい時代をまねきよせる主導勢力になった。
「それも松蔭以後である」と、よくいわれる。
(略)
松蔭がそれを変えた。
といっても、松蔭吉田寅次郎は藩の行政者でもなく、藩主の相談役でもなく、ないどころか、松下村塾の当時の彼は二十七、八の書生にすぎず、しかも藩の罪人であり、その体は実家において禁固されており、外出の自由すらなかった。
この顔のながい、薄あばたのある若者のどういうところがそれほどの影響を藩と藩世間にあたえるにいたったのか、それをおもうと、こういう若者が地上に存在したということじたいが、ほとんど奇跡に類するふしぎというよりほかない。
引用:司馬遼太郎著『世に棲む日々』
不明 - 山口県文書館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10264158による
江戸時代末期、小さな従順な藩から、日本の歴史を転換する革命勢力が生まれた。
彼らは吉田松陰の門下生です。
吉田松陰は当時、年齢27歳の前科持ちの青年。
彼が塾で教えた期間はわずか2年。
教えた塾生はわずか90名。
こんな奇跡が世の中にあるんだ!
吉田松陰の成し遂げたことは、司馬遼太郎をして「ほとんど奇跡に属するふしぎ」と言わせしめたのです。
なぜ奇跡は起こったか
なぜ松蔭が奇跡を起こせたのか?
いくつかポイントを挙げてみました。
- 時代がペリーの黒船来航という変革期だった
- 久坂玄瑞、高杉晋作という二人の天才を弟子にもった
- 松陰は人を裏切らない誠実な人物であった
- 信じたことを徹底的に追求する、ある種、異常ともいえる信念が弟子に受け継がれた
1年前も同じ疑問を書きました。
確かに、どれもが必要な条件でした。
この1年間考えて分かったことは、やはり松陰の強烈な信念が奇跡を起こしたということです。
国の将来を案じ、考えを重ねて作り上げた信念は、自らの命をも省みないゆるぎないものでした。
他人から見ればこっけいにみえる松蔭の行動。
しかし門人たちは、魂を震わせて、師の信念の行動から学び取ったはずです。
「志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず」
志ある人は、その実現のためには、溝や谷に落ちて屍をさらしても構わないと常に覚悟している。
松蔭の信念は弟子たちに受け継がれ、鋭い意思をもった革命勢力が新しい時代を切り開いたのです。
吉田松陰の生き方に興味を持たれた方は、ぜひ司馬遼太郎著『世に棲む日々』をお読みください。
『世に棲む日々』の前半は吉田松陰、後半は、幕末の英雄 高杉晋作の物語です。
高杉晋作もカッコ良すぎる。。。
ぽこるん - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=98171687による
松陰神社について
松陰神社についてご紹介いたします。
公共交通機関では、東急世田谷線松陰神社前駅下車、徒歩3分。
車でいかれる方は、構内に駐車場があり30分間は無料で駐車できます。
松陰神社
〒154-0023 東京都世田谷区若林4-35-1
TEL.03-3421-4834
神社開門時間(参拝可能時間):午前7時~午後5時(通年)
松陰神社の由来
吉田松陰は安政6年10月27日、安政の大獄に連座し30歳の若さで刑死。
大老井伊直弼による安政の大獄により、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎等50人余が投獄され、その多くが処刑された。
処刑は伝馬町牢屋敷で執り行われました。
吉田松陰の処刑を行った山田浅右衛門は、後年こう語っています。
いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。
悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。
その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した。
その4年後の文久3年、門下生であった高杉晋作、伊藤博文 等によって、松陰の遺体は世田谷若林地に改葬。
明治15年11月、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建されました。
松陰神社の風景2021年7月
1年ぶり、吉田松陰さんの御霊(みたま)にご挨拶してきました。
境内には、『夏越の祓』の茅の輪がまだ飾られていました。
ここに来ると、いつも気持ちが引き締まってくるのです。
昨年撮影した松蔭神社本殿。
茅の輪がない時の風景です。
2021年7月7日撮影の本殿前風景です。
「夏越の祓」の茅の輪 + 七夕飾りが置かれていました。
今年2回目の茅の輪、くぐっていましたよ。
茅の輪に背後には風鈴がたくさん飾られていました。
風鈴は魔除の効果があるとか。
しかし良い音ですね。
本殿の内部をパチリ。
祭壇中央には見事な鏡が置かれています。
松蔭神社のお守りと絵馬には「勝」「志」の、松蔭先生の直筆文字の写しが付いています。
「弱い自分の心に勝つ」
「初志を忘れず困難に立ち向かう」
大切なことばが書いてありますね。
松蔭さんの墓所への道風景。
緑豊かな歩道を抜けて墓所に向かいます。
吉田松陰さんの墓です。
昨年来た時は、墓の前に敷物を布いて座り込んでいた女性がおられました。
何か相談事でもあったのでしょう。
僕は松蔭さんの御霊の前で、自分の信念を問い続けました。
あとがき
たった一人の人間の強烈な信念が世の中を変えてしまうことがある。
人間の思考の力は大きなエネルギーを秘めている。
この場所に来るとそのことを強く感じるのです。
最後に松陰の辞世の句をご紹介します。
今の日本の政治家に、一人でもこんな人物がいるだろうか?
今日はもう、胸がいっぱいになってしまいました。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
わたしの身体は武蔵の野に朽ちてしまっても、大和魂だけは朽ちさせることなく、留め置いておこう。
今日も最後までブログを読んでいただき、ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
ShinSha
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