今回は高田馬場について書いてみようと思います。この街には19歳で上京して訪れてから、今も毎週訪れています。地方に移住した十数年のブランクがありますが、変わらず訪れる大好きな街です。
高田馬場は最近、急速にアジア化しています。中国、台湾、韓国、ベトナム、スリランカ、ミャンマー。アジアのいろんな国から若い人が集まってきています。今日はこの街の魅力について考えてみました。
じつは、昔、高田馬場に住んでいたことがあるのです。ここは人生の中で楽しい時間を過ごした場所でもあるのです。今回は四〇数年ぶりに、かつて住んでいた住所を訪れてみました。あの頃の記憶が次々と蘇ってきました。
高田馬場の魅力
この街は学生、若い人が集まる街だ。それは高田馬場付近に大学、予備校、専門学校が無数と言えるほど集まっているからだ。若い人、そして最近では外国人が集まる活気のある街だ。
この街には本屋、文房具店、ボーリング場、映画館、ゲーセン、カラオケ、携帯ショップ、ドラッグストアなど必要なものは何でもある。
飲食店はラーメン、とんかつ、ファーストフード、カフェなどありとあらゆる種類がある。学生が多いから安くて美味しい食事を出す店、居酒屋などが集まっている。この街に通っていると、ほかには行かなくても良いと思うほどだ。
多国籍化が進む街
最近、この街を歩いていると3割以上が外国人だと感じる。すれちがうのはアジアから来た若者だ。彼らにとっても活気があって包容力がある高田馬場には魅力があるのだろう。この街は他の街より飲食が安くできるし、住居となるアパートも多く家賃が安い。
早稲田大学には現在も8,000人を超える留学生がきており、日本の大学では最も多い留学生を受けている。これは戦前から続く伝統で、台湾、中国、アジアの国々に多くの卒業生がいる。アジアの国々と平和な関係を保っていくためにも、この伝統は素晴らしいことだと思う。
おそらくそんな土壌があるから、高田馬場には日本語学校、学国人向け予備校などが数多く生まれ、街がアジア化するきっかけとなった筈だ。そして長い時間をかけて、見知らぬ国から来た人々を包摂する力が養われていった。
最近、早稲田通り沿いに、日本語が通じそうにない店、不思議なスパイスの香りが漂う店などがどんどんできている。コロナ以降、その傾向が加速している気がする。この街ではスリランカ、ウズベキスタン、モンゴル、ミャンマーなど、ありとあらゆるアジア料理を食べられる。そういった店が増殖し、早稲田まで点々と続いているのだ。
駅前のTAK11ビルには、ミャンマーの人が集まる店が多く入居している。高田馬場は「リトルヤンゴン」と呼ばれているらしい。ミャンマーが軍政化してきた時に逃げてきた人々だ。このビルの1Fには「孤独のグルメ」で放映したミャンマー料理店「ノンク・インレイ」がある。まだ食事をしたことはないけど ^^;
若い頃、アジアで仕事をしてきた僕は、この街の雰囲気が好きだ。将来の日本の何歩か先を行っているんじゃないかな。どこかで大きいキャンティーン(露天)エリアでも作れば良いのにと思う。
40年変わらない店
今日も高田馬場を訪問した。仕事の合間に食事をしたり、書店で本を探したり、この街にはほぼ毎週訪れる。駅前の芳林堂書店は40年通う本屋だ。本の陳列も昔と基本的に変わっておらず、一番のお気に入りだ。
この街をずっと見てきて、長く生き残る企業とは何かと考える。早稲田通り沿いの店舗をみると1%も同じ店は残っていない。競争が激しい東京の街で40年を生き抜くのは、いかに困難なことだろうか。
まず銀行はすべて無くなった。かつては太陽神戸銀行、富士銀行などの支店が早稲田通りにあった。銀行はもう名前すら残っていない。所詮、銀行なんて人の金をかすめ取るいかがわしい商売だという証拠だ。
駅前BIG BOXは今年50周年らしい。しかし、中身は随分変わっている様子だ。どんな店が40年以上生き残ったか、気がつく限りリストアップしてみることにする。
まず、芳林堂書店が残っている。経営者は変わったようだが、しぶとく残ってくれて嬉しい。そして、名画座「早稲田松竹」は今も健在。学生時代何度もオールナイトで映画を見た。池袋の名画座はなくなってしまった。
飲食店では「鳥安」、「清龍」などの居酒屋が40年以上残っている。「鳥安」は近くに2店の分店がある。いつ行っても、美味しい焼き鳥とお酒があり、とてもお値打ちだ。「清龍」は最近改装した様子。早稲田大学の学生は必ず飲みにいく居酒屋だ。僕はあまり行った記憶がない。
芳林堂書店のあるビルの地下に、とんかつ「とん久」が残っている。この店はいまでも毎日昼に行列ができる名店だ。「えぞ菊」は味噌ラーメンの名店。かつては明治通り沿いに店があった。昨年ラーメンを食べに行ったが、量が多くていまは食べきれない。味は昔から変わっていなかった。
40年以上残っている店の共通点を探すのはなかなか難しい。しかし、どの店も独自のサービスを変わらず続けていて、顧客満足度が非常に高い店だ。40年前も今も、変わらないクオリティを感じる。40年ってすごいよ。この地で長く素晴らしいサービスを続けてくれているお店に、心から感謝したいと思う。
極私的高田馬場散策
ところで、僕は大学2年生の1年間、高田馬場に住んでいたことがある。高田馬場駅から早稲田通りを東に進んで、早稲田松竹の手前を右に曲がって路地をどんどん進んでいったところが、昔僕が下宿していたところだ。久しぶりに歩いてみようか。
路地に入ったところに、かつて「あらえびす」という名曲喫茶があった。クラシックを聴かせる店だった。今は普通のビルになっている。そういえば、早稲田松竹の並びに「らんぶる」という名曲喫茶もあった。コーヒー一杯で何時間も過ごしていたなぁ。
ちょっと先に、新宿区の社会福祉施設がみえる。役所の施設は40年経っても変わらない。少し前から評判になっている鰻専門店「愛川」を過ぎて、歩くと諏訪公園が見えてくる。この公園も大して変わっていない。そういえば、この公園でデートをしたことがあった。
デートの相手は、僕が大学に入って初めて付き合った女性でソ◯ーに勤めている人だった。彼女には時々ご馳走してもらったし、いろんなことを教わった。少し年上の、小柄で可愛い人だった。彼女と出会ったのは長野の善光寺だった。
さらに歩いていくと路地が狭くなってくる。そう、もう少し先だった。僕が住んでいたところは。えっ、こんな狭い路地にまで日本語学校がある。だから、さっきから外国人の若者とすれ違うんだ。
この先に、下宿していた木造のアパートがあったはず。少し歩いてみた。ん?この表札の苗字は...かつての大家さんのもの。ついに昔の下宿があった場所を見つけたのだ。
ここには一年しか住まなかったが、いろんなことがあった。学校も近くて食事をする店も山ほどある。映画館も本屋も近くて最高だと思っていたが大きな誤算があった。
友人を数人、下宿に連れてたきたのが間違いだった。転居して、数か月後の土曜日の午前1時すぎ、誰かが部屋のドアをノックした。「おい、起きてるか?」ドアを開けると、友人2人が階段に立っていた。
「悪い、終電に乗り遅れた。酒買ってきたから一緒に飲もう。始発までここに居ていいか?」
新宿から歩いてきた奴らには、有無を言わせぬ勢いがあった。仕方なく、僕は友人と部屋で酒を飲み、雑魚寝した。そして、明け方、終夜営業の店で食事をして別れた。
下宿の玄関には施錠するような扉もなかった。当時は部屋に電話はないし(大家さんの呼び出し)、携帯電話もメールも当然ない。それ以降、友人から寝込みを襲来される事件が度々起きた (^^;;
ここに住んで一年になろうとする頃、大家さんの奥さんがやって来て「春から姪が上京してくることになったの。申し訳ないけど、この部屋を空けて頂けない?」と言い渡された。仕方なく、僕は西武線沿線の沼袋へ下宿を移すことになった。それが真実であったかどうかは分からない。
狭い路地を歩きながら、昔のことをフラッシュバックのように思い出していた。懐かしくて、胸がいっぱいになったよ。
おわりに
今日も高田馬場に行ってしまった。大好きな本屋があって、昼ごはんを食べる店の選択肢も広いからなぁ。ちょっと空いた時間があると足が向いてしまう。この街にはすごい数のアジア料理店があるから、久しぶりにエスニック料理の食べ歩きでもしてみようかとも考えています。
昔住んでいた下宿のあった場所を訪れるのはこれで2回目。ブログを書いていなかったら、もう行かなかったと思います。しかし、土地と記憶とは強く結びついているものですね。わずか5分の散歩の間に、あの頃の映像が次々と頭に浮かんできました。懐かしいあの人も。今夜は楽しい夢が見られるかな。
ShinSha