時の化石

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ゴッホ 晩年の大傑作『カラスのいる麦畑』は絶望と希望を描いていた!

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「カラスのいる麦畑」 ヴィンセント ヴァン ゴッホ作(ヴァン ゴッホ美術館)
 
はじめまして、ShinShaです。
今日からブログを始めることにします。
このブログ「時の化石」を通じて、
僕の大好きなアートや音楽、人生に関する様々なことをご紹介していきたいと思います。

ブログについては、全くの素人ですがよろしくお願いします。
最初に、このブログで採り上げるのは、ゴッホの作品「カラスのいる麦畑」です。

この絵はゴッホの遺作といわれていた絵です。
最初のブログに、遺作を採り上げるのかって?
ゴッホ だったら「ひまわり」とかもっと明るい絵があるだろう。
ごもっともです。
しかし、インスピレーションなんですよね。

今回このブログを書くために、
あらためてこの絵について調べ、じっくり鑑賞をしました。
そうしたら新しい発見がありましたよ。

「カラスのいる麦畑」には、
激しい哀しさと絶望とともに、希望も描かれていたのです。 

大きい画像を見るには下のリンクをクリックして下さいね⇩

www.vangoghmuseum.nl

この作品との出会い

上京して大学に入学し、仲良くなったのはちょっと変わった連中でした。
理系なのに、アテネフランセに通ったりフランス映画の話をしたり。

不思議なコートを着て、クラシックのコンサートに出かける奴もいた。
時々、カラヤンだの、ベームだの、グールドだのと話してました。

皆、首都圏の有名高校の出身者でした。
彼らは、勉強のほかにもいろんな趣味をもっていた。

映画館もまともな本屋すらない街で育ち、
田舎の県立高校を卒業した僕には、全てが刺激でした。

むさぼるように、彼らの話す本を読んだり、映画を観たりするようになりました。
絵にも関心をもつようになり、時々、美術展にも出かけるようになりました。

最初は印象派の絵をずいぶん観ました。
なかでもゴッホの絵が大好きになった。

今回の記事の作品は実物を観たことはありません。
しかし、私は何十年もこの絵に魅かれているのです。

絵の情報

ここからは、ヴァッゴッホ 美術館のwebsiteから絵の情報を紹介します。

「カラスのいる麦畑」
ヴィンセント ヴァン ゴッホ(1853−1890)、
オーヴェル=シュル=オワーズ 、1890年6月
油彩、50.5 cm x 103 cm
クレジット:ヴァン ゴッホ 美術館、アムステルダム(ヴィンセント ヴァン ゴッホ財団)

<絵の説明>
「カラスのいる麦畑」は、ヴァン ゴッホのもっとも有名な作品のひとつです。
この絵はゴッホの遺作だと、しばしばいわれてきました。
荒れ狂う空、カラス、行き止まりの小径が、彼の死が近づいていていることを暗示していると。
しかし、これはよく出来た作り話です。
実際には、この作品の後、彼は数枚の絵を描いています。

ゴッホはこの作品で、嵐の空の下の哀しさと激しい孤独を表現しました。
同時に彼は田園地域の健全さと強さについても表現したいと望んでいました。
ゴッホは、この絵で強力な色のコンビネーションを用いています。
青い空は、黄色ーオレンジの麦畑とコントラストをなし、赤く描かれた小径は緑の草で強調されている。

ゴッホの生涯

皆さんもご存知と思いますが、ここでゴッホの人生を簡単にふり返りたいと思います。
実は私の記憶の確認作業なんですが。。。(^^;
もう、ずいぶん忘れてますね。

  • 1853年 3月30日、オランダ南部ズンデルトで誕生。

  • 1869年 - 1876年 商社で働くも解雇される。

  • 1877年 - 1880年 教師、書店員として働いた後、聖職者を目指すようになる。受験勉強に挫折し、キリスト教の伝道師となる。
    やがて伝道師としての活動も失敗。絵を描くことを決意する。

  • 1881年 − 1883年 故郷、ハーグにて、本格的に絵の修行を始める。

  • 1883年 - 1884年 ニューネンに移った実家に戻り、織工や農民の絵を描く。
    この当時の代表作「馬鈴薯を食べる人々」

  • 1883年 - 1885年 ベルギーのアントウェルペンへ移り、絵の勉強を続ける。

  • 1886年 - 1888年 弟テオを頼って、パリに向かう。
    絵の修行をしながら、印象派の作家と交流して影響を受ける。
    日本画を好み模写した油絵を描く。ゴーギャンとの交流が始まる。

  • 1888年 - 1889年5月 フランス南部アルルに移り本格的な創作活動を行う。
    「アルルの跳ね橋」「ひまわり」「夜のカフェ」などを描く。
    1888年10月からはゴーギャンとの共同生活を始める。
    しかし、性格の不一致、絵の技法の違いから関係が悪化。
    12月にゴッホは精神に異常をきたし、自らの左耳を切断する事件を起こす。

  • 1889年5月 - 1890年5月 アルルからサン=レミ修道院にある療養所に入所。
    療養しながらも、創作を続ける。
    「アイリス」「星月夜」「二本の糸杉」などを描く。

  • 1890年5月 - 1890年7月 オーヴェル=シュル=オワーズに移る。
    ポール・ガシェ医師のもと療養を続ける。
    「医師ガシェの肖像」「オーヴェルの教会」「カラスのいる麦畑」などがこの時期の作品。
    1890年7月自死オーヴェルの麦畑付近で拳銃を用いて自殺を図ったとするのが定説となっている。

ゴッホが亡くなったのは37歳のこと。
こうしてみると、ゴッホの充実した創作期間はわずか3年なんですね。

ゴッホの絵は技術的にはアルル時代の作品が優れています。
しかし、僕はサン=レミ時代以降に大傑作が多いと思います。

ゴッホが生きている間に売れた絵はたった1枚。
生きている間は、たった1枚の絵しか、世間に評価されなかった。

それでも、彼は懸命に絵を描き続けた。
弟テオは1880年頃からずっと、兄ゴッホを経済的にも精神的にも支援続けた。
信じられないようなストーリーです。

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「灰色のフェルト帽をかぶった自画像」1887年7月−9月 (ヴァン ゴッホ美術館)

「カラスのいる麦畑」を分析する

しかし、ゴッホ美術館の「同時に、彼は田園地域の健全さと強さについても表現したいと望んでいました。」という説明が気になりますね。
もう一度、じっくりこの絵を観たくなりました。

ここからは、私の眼から見た「カラスのいる麦畑」の印象を書きますね。

この絵のどこにこんなに魅かれるのか?
ひとつは、この絵がセンチメンタルで、ドラマチックな作品だからでしょうか。
全身全霊で描いているゴッホの魂が強く感じられます。

初めてこの絵を見たときは、激しい空と麦のタッチ、色彩にクラクラしました。
何かに幻惑されたように気分になり、強い衝撃を受けました。
技巧的には、もはや安定はしていないけれど、彼の最高傑作だと思える。
もうひとつは、これが彼の遺作だと信じていたからでしょうか。

青の色調の変化と、荒々しい筆のタッチで描かれた、激しい風が渦巻く嵐の空。
飛ばされないように、空を低く飛ぶカラスの群れ。

一部は畑に溶け込み、右側を飛ぶ数羽はこちらに向かってきている。
風でびゅうびゅうと大きく揺れる麦と草むら。
小径は曲がり、行方は揺れる麦で見えなくなっている。

ブルーの空に激しい哀しさと孤独を感じます。
しかし、荒れ狂う空、激しい嵐に負けないで、麦畑は向かい合っているように思えます。
ゴッホの描いた黄色が、麦畑に強い生命力をもたらしている。

じっくり観ると、この絵の主題は絶望ではないと感じてきました。
むしろ麦からは希望すら感じる。
この絵には、きっと絶望も希望も描かれているんですね。

ゴッホ美術館の説明は、やはり正しいかもしれない。
美術館websiteの大きい画像を約1時間見続けたら、そう感じるようになりました。
これは、新しい発見でした。

あとがき

久しぶりに、長時間、大好きな絵と向き合うことができました。
やはり、「カラスのいる麦畑」は大傑作です。
死が近づいてきていたゴッホが、
激しい哀しみ絶望の中にも希望を見出していたならば、本当に良かったです。
少し涙がでてくる

ブログを書くためにヴァン ゴッホ美術館のwebsiteを何回も見ていましたら、
知らないことが、いっぱい書いてありました。
もちろんオランダ語は理解できないので、英語でよちよち読んでいます。
近いうちに、また、ゴッホについて書くつもりです。
今度は本物の遺作かって? 違いますよ〜。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
まだ先輩方のブログはほとんど読んでませんし、
こういうブログに、皆さんが関心をもってくれるのか?よく分かりません。

もし、興味をもっていただいた方が、おられましたら嬉しいです。
今後ともよろしくお願い致します。