どーも、SinShaです。
今日の東京はずいぶん熱かったですね。
相変わらず、右膝がすごく痛いのですが、今日も仕事に出かけてきました。
東京は、徐々に平常に戻りつつありますね。
先日お知らせしたように、国立西洋美術館にてロンドン・ナショナル・ギャラリー展が、6月18日から始まります。
当初は3月3日〜6月14日の予定でしたので、ひょっとしたら中止になるかもと心配していました。
大阪の会期も変更になって、2020年11月3日(火・祝)〜2021年1月31日(日)となりました。
きっと、イギリスの方が新型コロナウィルス被害が大きいから、延期してやろうかということですね。
さて、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展は、ゴッホの「ひまわり」がアイコンに使われています。
この展示会では全61枚の絵が公開されますが、フェルメール、ベラスケス、ゴヤ、モネなど名だたる作家の作品を抑えて、「ひまわり」が採用されました。
ゴッホの「ひまわり」は、それほど人気があるのですね。
今回のブログでは、「ひまわり」に関する話題をはじめ。ゴッホに関する注目すべきエピソードをご紹介します。
ロンドン・ナショナル:ギャラリーの「ひまわり」は 4作目の作品
この文章は、ゴッホ美術館とwikipediaの資料を、見比らべつつ書いています。
ゴッホが描いた「ひまわり」は全部で(5+2)作という説が正しいようです。
(5+2)というのは、5枚がオリジナル、2枚がコピーという意味です。
2枚のコピーはゴッホ自身によって作られたものですが、オリジナルの5枚とはかなり、クオリティが異なるようなのです。
それでは、ゴッホ美術館の「ひまわり」に関する記事を紹介しましょう。
「ひまわり」はゴッホの作品の中でも最も有名な作品のひとつです。
南フランスのアルルで、彼は「ひまわり」を1888年、1889年に製作しました。
ゴッホは、花瓶に活けたひまわりを5枚の大きなキャンバスに描きました。
ゴッホはひまわりの花を、色調のちがう3種類の黄色のみで描いています。
彼は一色の絵具で、雄弁で多彩なバリエ〜ションを生み出せることを示したのです。
ゴッホにとって「ひまわり」は特別な意味をもっていました。
ゴッホとゴーギャンは、最初は良好な関係にあり、最初に描いた2枚は、ゴーギャンの部屋に掛けられたのです。
ゴーギャンは「ひまわり」に感銘を受けて譲って欲しいと伝えました。
しかし、ゴッホは断ったそうです。
ゴッホは、後に2枚の「手を抜いたコピー(原文は loose copies)」を製作しました。
当館の所蔵品は、そのうちの1枚です。
(この場合のlooseをどう訳すか、ずいぶん迷った)
所有しているゴッホ美術館自身が、「手を抜いたコピー」と書いていますので、明らかに、重要なのは最初の5枚ですね。
画像をみますと、確かに6枚目、7枚目は前の5作には劣っています。
1888年12月にゴッホは右耳を切断する事件を起こしています。
2枚のコピーの製作時期は、1889年1月となっていますので、直後で、精神が不安定だったのでしょうか?
結論として、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展の「ひまわり」は4作目の作品で、もっとも人気が高い作品です。
そしてゴッホの遺族が、最後まで売却をためらったのは、この絵だったんですね。
ご参考までにSOMPO美術館の「ひまわり」は5作目の作品です。
ゴッホに名声を与えた女性 ヨーの物語、そして最後まで残された「ひまわり」
皆さんは、ゴッホを有名にしたのは、誰だがご存知でしたか?
ShinShaはゴッホ美術館の最近の記事を読むまで、弟テオだろうと思っていました。
美しい兄弟愛の完成というストーリーを信じていたんですね。
ところが、記事に書いてあったのは、何と、何と.........
ヨー・ヴァン・ゴッホ・ボンガーという名の女性でした
この女性は誰?
そこには、感動的なドラマがありました!
それでは、ゴッホ美術館の記事を紹介します。
(この記事は2019年9月に出版されたヨーの伝記"All hor Vincent"から書き起こしたようです。)
ヨー・ヴァン・ゴッホ・ボンガーはヴィンセントの名声に光を与えた
ヴィンセントは、いつか世界でも有名な画家になりたいと望んでいた。
最近の伝記は、彼の名声の確立のために、ヨー・ヴァン・ゴッホ・ボンガーが、重要な役割を果たしたことを明らかにした。
ヴィンセントの絵を全て残して
ヴィンセントの弟テオと結婚した2年後、ジョーは未亡人となった。
その時、彼女は29歳で、1歳の息子、ヴィンセント・ウィレムの面倒を見なけれならなかった。
テオはヴィセントの油絵、素描画、手紙の全てを残していった。
当時は誰もこの価値を知らなかった。
ヨー、ありがとう。君が全て変えてくれた。
夢の実現
テオは、兄の作品を世界に広めるのが自分の使命だと考えていた。
テオの死後、ヨーはそれは自分の責任だと考えるようになった。
しかし、幼い子供をかかえた若い未亡人には、これは容易なことではなかった。
最初は一人で行動した
テオの死後、ヨーはパリからオランダへ戻った。
ブサムという街でゲストハウスを経営して、生計を立てた。
彼女は、英語翻訳の仕事もした。
ヴィンセントの作品を広めるために、時々、作品の一部を売却した。
名画「星月夜」の販売は、アメリカへの道を開いた。
ヴァン ゴッホ美術展
ヨーはその後も非常に戦略的に、ヴィンセントの作品の名声を高めていった。
絵の販売に加えて、展示会や美術館への貸出を行ったりした。
1905年にはアムステルダム市立近代美術館で、ヴァン ゴッホ最大の美術展を後援した。
ヴィンセントの作品は、人気になり価格は上昇していった。
テオへの手紙
ヴィンセントの死後、テオは兄の手紙を整理したいと言っていた。
ヨーはこれを責任をもって成し遂げ、「ゴッホの手紙」を出版した。
これは膨大な仕事だった。
ヴィンセントは手紙に日付を書いたことはなかったし、そして、ヨーはわずかな期間しか彼を知らなかった。
ヨーはヴィンセントの詳しい情報を得るため、ヴァン ゴッホ家にインタビューにも行った。
「ゴッホの手紙」が出版された時には、彼女は51歳になっていた。
この本のおかげで、芸術家としてのヴィンセントへの認識は高まり続けた。
最後のセール、ロンドン・ナショナル・ギャラリー「ひまわり」
ヨーは、ヴィンセントの絵画192点と素描画55点を販売したことが知られている。
1924年に死去する少し前に、彼女はしぶしぶ最後の作品を販売した。
この作品が、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに販売した「ひまわり」である。
彼女は、ロンドン・ナショナル・ギャラリーのディレクターに「この絵を手放すことは、ヴィンセントの名誉を得るための犠牲なんです」と書いている。
ヨーは、多くの人々にヴァン ゴッホの作品を見てもらうことが重要だと理解していた。
そして、「ひまわり」は、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに安住の地を得た。
ヴァン・ゴッホ 美術館
ヨーは作品の販売に関して、明確なビジョンを持っていた。
販売したくない作品は家族の中にとどまった。
彼女が1925年に62歳で亡くなった後、残された作品と全ての手紙は、息子であるヴィンセント・ウィレムに相続されました。
これらの作品は現在、1973年にヴィンセントウィレムによって設立されたゴッホ美術館の中心にある。
ウィレムとヨーの尽力に感謝します。
彼は、父親と叔父の夢を見事に実現したのです。
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まとめ
いやー、「ヨー ヴァン・ゴッホ・ボンガーはヴィンセントの名声に光を与えた」を翻訳始めたら予想よりボリュームが増えてしまいました。
ヴィンセントの死後、1年後にテオも亡くっていただんですね。
そして、夢を繋いだのが、テオの奥さんヨーと息子のウィレム。
美しい話すぎて、今日は眠れそうにありません。
ヨー、ありがとう!
私も心からお礼が言いたい!
君の力がなかったら、ヴィンセントは日の目を見なかったかもしれない。
ここまで書いて、涙が少し。
書き出しと話の展開が違うだろうって?
ご指摘のとおりです。
いつも、付け焼刃で申し訳ありません。
しかし、最後まで売らなかった絵がロンドン・ナショナル・ギャラリーの「ひまわり」だったんですね。
これを見た瞬間、私は、救われました。
予想だにしなかった、完璧なオチが着いた。 ^_^;
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今後ともよろしくお願い致します。
ShinSha