時の化石

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あまりに偉大、あまりにも魅力的な植物学者 牧野富太郎 博士のこと 

どうも、ShinShaです。
今回は放映中のNHK朝ドラ『らんまん』のモデル、牧野富太郎 博士のお話です。

2023年2月、渋谷PARCOにある「ほぼ日曜日」に行ったのです。
そこで、初めて牧野富太郎 博士の植物画を見ました。
衝撃を受けました。

博士が、有名な植物学の権威であることは知っていました。
それから本を読んで、彼の人生について知ることになりました。

またまた、驚きでした。
時代が違うとはいえ、こんな信じられないような人物がいたんですね。

牧野富太郎 博士について

プロフィール

植物学者 牧野富太郎博士(1862-1957)
牧野富太郎博士は、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれました。高知の豊かな自然に育まれ、幼少から植物に興味を持ち、独学で植物の知識を身につけていきました。2度目の上京のとき、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込むようになります。

自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に、新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけました。94年の生涯において収集した標本は約40万枚といわれ、蔵書は約4万5千冊を数えます。新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。

現在でも研究者や愛好家の必携の書である「牧野日本植物図鑑」を刊行。1953年東京都名誉都民。1957年文化勲章受章。
引用:https://www.makino.or.jp/dr_makino/

Tomitaro Makino、See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

牧野博士の生涯 略年譜

1862年文久 2)
現在の高知県高岡郡佐川町で生まれる。幼名を成太郎と言う。

1876年(明治 9)、14歳
小学校が面白くないから自主退学し、採集した植物を「重訂本草綱目啓蒙」で調べて名前を覚えていた。

1884年(明治17)、22歳
2度目の上京。
東京大学理学部植物学教室を訪ね、教授の矢田部良吉と助教授の松村任三を知り、教室への出入りが許される。

1888年(明治21)、26歳
寿衛子と東京根岸に所帯を持つ。「日本植物志図篇」刊行を始める。

【左】明治21年刊行「日本植物志図篇」・・・富太郎が図を描き、石版印刷した自費出版。【右】明治33年刊行「大日本植物志」、完璧な記載と精密植物画 は世界的な評価を受けた。http://www.hananozaidan.or.jp/tan46_2.html から引用


1893年(明治26)、31歳
帝国大学理科大学嘱託、臨時雇用を経て助手となる

1912年(明治45)、50歳
東京帝国大学理科大学講師となる。

1927年(昭和 2)、65歳
理学博士の学位を受ける。

1939年(昭和 14)、77歳
東京帝国大学へ辞表を提出、講師を辞任する。

1948年(昭和 23)、86歳
皇居に参内、昭和天皇に植物学をご進講。

1957年(昭和32)、94歳
永眠。東京都谷中の天王寺墓地に埋葬。没後、文化勲章を授与される。

https://www.makino.or.jp/dr_makino/ から引用

国民に愛された植物学者

牧野富太郎博士は土佐出身なんですね。
生まれた1862年は、坂本龍馬が脱藩した年だそうです。

牧野博士の経歴は、今でいうと、小学校中退のアマチュア植物愛好家が東京大学で教鞭を取るということなんですね。
しかも、その愛好家が日本で初めて新種に学名を付け、それから次々と新種を発見してしまう。
まさに、植物学界のヒーロです。

しかし、話は美談だけでは終わらないのです。
彼の人生は、まさに貧乏との戦いでもありました。

彼の生家は酒造と雑貨を営む「岸家」という裕福な商家でした。
しかし、助手になった頃には、財産もほとんど失くなってしまった。

牧野先生が初めて帝国大学助手になったのが31歳、この時の給与が15円、今でいうと15万円程度。
そして講師になったのが、なんと50歳のとき。

この間、日本中に植物採取に行き、精力的に植物分類学の研究を行い、雑誌、植物図鑑を独力で発行。
研究って一人でやっていても、ずいぶんお金が掛かるんですよ。

おまけに牧野家は子だくさんで、子供はなんと13人💦
まったく、どうやって暮らして、どうやって研究を続けていたのか (^◇^;)

私は商売上、旅行を何百遍となしたが、費用がかかるから、地方の採取会に講師として招聘される機会を利用し幾らか謝礼をもらうと、それでまた旅行を続けたりした。そんなことが続き続きして今日に至ったわけである。
牧野富太郎自伝」

こうやって、博士は日本中に植物採取に出かけていたんですね。
牧野博士氏の採取会、講演会はとても人気があったそうです。
博士に聞いて知らない植物はなかったし、ユーモアがある講演は面白かった。

彼は象牙の塔の学者ではなかったのです。
日本中に出かけ、植物の美しさ、採取の楽しさを伝えた。
何百人という地方の愛好者や学校の先生を指導した。

しかし、借金はたまっていった。
1916年(大正 5)、絶対絶命の事態がやってきて、標本を海外に売って、返済しなければならない時が迫ってきました。

この時、牧野博士の窮状を伝える記事が新聞に載ったのです。

篤学者を困窮の中において顧みず、国家的文化資料が出されるようなことがあれば国辱である ー東京朝日新聞

月給35円の世界的学者。金持ちのケチン坊と学者の貧乏はこれが日本の代表的痛棒なり。牧野氏植物標本10万点を売るー 大阪朝日新聞

そして、記事を読んだ二人から援助の申し込みがありました。
一人は日立製作所創業者の久原氏、もう一人は京都大学学生の池長という人物でした。

この時のことを牧野氏は自伝にこう書いていました。

新聞社で相談をしてくれた結果、この池永氏の好意を受ける事になって、池長氏は私のために二万円だか、三万円だかを投げ出して私の危急を救うて下された。永い間のことであり私の借金もこんな大金となっていたのである。

何だか人ごとみたいだし、2億円と3億円は、ものすごく違いますよね💦
この人は、本質的に世事に疎いんだなぁ。

しかし、本当に良かったですね。
全身全霊で道を極めた人を、天は見捨てない。

国民に愛された学者だったから、マスコミも援護してくれた。
牧野博士だから、この危機から逃れることができた。

後年、牧野博士は宮内省から呼び出しを受け、天皇陛下に植物学をご進講することになりました。
陛下から「あなたは、日本はもちろん世界の植物学界にとってとても大切な人です。あなたは国の宝です」という言葉を頂いたのです。

図鑑の発明

図鑑を発明したのは牧野富太郎だといわれています。
1940年(昭和15)、「牧野日本植物図鑑」が上梓されました。
現在、牧野図鑑には学生版、コンパクト版など様々なスタイルのものがあります。

牧野を冠する図鑑はいまも売れ続ける、これまで40万部を超える脅威のロングセラーだといわれています。
図鑑が売れるということ自体が、当時の出版社には驚くべきことだった。

発刊以来80年を超えて、いまも愛されている現役の図鑑。
彼が心血を注いだ仕事は、信じられないほど素晴らしいです。

「牧野日本植物図鑑」

妻、 寿衛子さんのこと

妻、寿衛子さんのことを思い出して、博士はこう書いています。

いつだったか 寿衛子が何人目かのお産をしてまだ三日目なのにもう起きて遠い路を債権者に断りにいってくれたことなどは。その後何度思い出しても私はその度に感謝の念で胸がいっぱいになり、涙さえ出てきて困ることがあります。

そう言いながら、もっぱら借金取りの相手は夫人に任せて、家の奥で自分は植物の研究を続けていたといいます。

二人はずっと、お金に困った生活をしていました。
家賃が払えなくて転居30回。
年に2回転居したこともあったそうです。

婦人は牧野博士の研究を支えるため、サイドビジネスもしていたようです。
牧野先生は、一人で生活ができる人とは思えませんね。
寿衛子さんがいなかったら、大きな功績は残せなかったんじゃないかな。

お子さんが書いた文章によると、それでも寿衛さんは本当に明るく楽しい人だったそうです。
きっと二人で、日本中の植物を極める夢を見ていたんでしょうね。

そうでなければ、こんな暮らしを続けることは難しいです。
そう思うと、胸が熱くなります。

博士が学位を得て、いよいよこれからというときに、寿衛子さんは55歳で世を去りました。
牧野博士は、前年に仙台で発見した新種のササに「スエコザサ(学名ササエラ・スエコアナ・マキノ)」と名づけました。

夫人の墓には牧野博士の俳句が二句、刻まれています。

家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹

みんなの趣味の園芸|園芸、ガーデニングの情報サイト(NHK出版)] https://www.shuminoengei.jp/ から引用

ほぼ日曜日『牧野植物園がやってきた』展

2023年2月に行った、ほぼ日曜日『牧野植物園がやってきた』展の写真を紹介します。

渋谷PARCOへ久々に行きました。
新型コロナが流行してから、ちょっと渋谷は怖くて、足が遠のいていたのです。

ほぼ日曜日
「ほぼ日曜日」は、ほぼ日刊イトイ新聞」のリアルスペースです。 日々ウェブからコンテンツをお届けする 「ほぼ日」が、このリアルなスペースでは 様々な催しを実施。展覧会、イベント、 ライブ、トークショーなどなど、「生」の 出会いを提供します

ほぼ日曜日 - ほぼ日刊イトイ新聞

「ぼぼ日曜日」の入り口が見えてきました。
牧野博士の写真が飾られています。

「雑草という名の草はない」
昭和天皇も引用された博士の有名な言葉です。

展示会場の全景です。

これは、サクラの標本です。
とてもリアルな標本なんですね。
まるで、ここで花が咲いているみたいです。

続いてヤマブキの標本です。
これも美しい標本です。

この植物画を見て、僕は衝撃を受けました。
筆で描かれた驚きの植物図。
ヒガンバナの成立ち、構造に至るまで詳細に描かれている。

学術的価値が高い優れた描写です。
「科学の基本は徹底的な観察なんだよ」
改めて牧野先生に教えられた気がしました 。

!

このヤマザキクラの図もすごいですね。
花を分解して、オシベ、メシベの形、断面図まで詳細に描いてあります。

毛筆で描いているのに、細い線は0.5mm。
まったく驚きです。

こんな絵が描けるなら、生家が没落しようと構わない。
そう思えるほどです。

ジョウロホトトキス。
牧野博士命名の植物の写生図。
これも断面図や分解した部分が描いてあります。
少し、郷土自慢が入ってます😃

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あとがき

最初は「ほぼ日曜日」で撮った写真中心の軽い記事のつもりでしたが、牧野富太郎博士の波乱万丈の人生を知って、長文記事となってしまいました。

僕の持っている本、『MAKINO - 生誕160年 牧野富太郎を旅する -』(高知新聞社編 )にある、いとうせいこうさんの寄稿文から引用します。

妻のスエさんの大きな助力の中、極貧のような状態でも牧野博士は植物への情熱を絶やさず、高価な学術書を買ってしまう。
子供はどんどん生まれる。
家の中は標本であふれる。

失礼だが笑ってしまうような生活である。
学者としても人間としても破綻とともに高潔さがある。
あまりに魅力的である。

牧野富太郎博士の蔵書は、いま高知県立牧野植物園の「牧野文庫」に収められています。
私財を投じて購入した蔵書、植物画など5万8千点に及び、世界的なコレクションも含まれています。
また、中には世界情勢に関する本や文学書も含まれていました。

この蔵書は、古本の価値で1億円。
彼がお金に困った主な原因は、書籍の購入だったといわれています。
どんなに苦労しても、買わずにはいられなかったんですね💦

牧野文庫の書籍 [高知県立牧野植物園] https://www.makino.or.jp/ から引用

誰の人生にも光と影がある。
それをやり過ごして、彼が成し遂げた功績は素晴らしいです。
そして、日本中の人がファンになるほど魅力的な人だった。

そう思っていたら、胸がいっぱいになってしまいました。

ShinSha